うつ病と戦いながらの看護師生活【今までの看護人生で感じたこと】

田舎で育った幼少期

 

私は愛知県の山間部の町に生まれました。
3人兄弟の真ん中で、2歳上の姉と4歳下の弟がいます。
母は准看護師で、私が生まれる前から小学校くらいまで眼科で働いていました。
父は母体の大きな福祉団体のボイラー技士でした。

かなりの田舎でみんな当たり前のように年少組から同じ保育園に入園して
みんな同じ小学校に通っていました。
小学校までは片道徒歩1時間弱で最初の頃は通学がつらかった覚えがあります。
学校まで徒歩10分以内の同級生が羨ましくてこんなところに住む両親を恨みました(笑)

でも、運動神経が悪い私でも歩くのは早くなったし
長距離を歩くことが苦にならないので立ち仕事の看護師にはよかったのかな~と
今になって思います。でも当時は本当につらかった!!

小学生の頃の将来の夢はその時の流行りに左右されていて
アナウンサーとか、検事とかいろいろだったんですよね。
ただ、頭が良くないとなれない職業!とは思っていましたね。
とにかく勉強が好きだったんですよ。
准看護師の母の影響は全くと言っていいほどなかったです(笑)

小学生のころ、ボイラー技士の父が同じ職場の中で
介護士として働くようになりました。
時代とともにボイラー技士がいらなくなったんですって!
父の影響で介護という分野への興味は少なからず出てきましたね。

中学でのイジメ、克服するために私がやったこと

 

中学に入り、田舎の中学なので町内にある10の小学校から同じ中学に上がったんですよ。
それでも全校で160人くらいでしたね。
中学ではソフトボール部に入っていたんですけど
突然無視されたり、仲間外れにされたりするようになったんですよね。
理由は「先輩に媚を売っている」「同級生にも気を使っていてウザい」でした。

中学の中でも私の学年はイジメが多いことで問題視されていたし
同じ部活の同級生の中にはイジメの主犯格になっている子が数人いたんですよ。
ずっとイジメを恐れていたから、気を使い過ぎたのかもしれませんね。
あ~私の番が来た。という絶望感で一杯でしたね。
自分には生きている価値がないとも思いましたし、どうやったら逃げられるだろうと考えていました。

イジメの主犯格の子がいつまでも主犯格でいられるわけでもなくて
下剋上のようにイジメられていたときは、心のなかで天罰だとも思いました。

休み時間は話す相手もいなかったのでずっと読書をしていましたね。
中学生の時に読んだ本の数はなかなかなものだと思います!
もともと勉強は好きでしたが、ますます勉強に打ち込むようになりました。
学年で1位を取って、イジメていたことたちを見返すことだけを考えていました。

中学2年の教科書の中に私の転機がありました。
それは「国境なき医師団」です。
医者になって国境なき医師団に入るんだ!!それが私の目標になりました。

学年で1位を取る目標は中学3年生の最期の試験でついに叶ったんです!
今まで努力してきてよかったと本気で思った瞬間でしたよ。
ただ、それまで1位争いをしてきた子たちを驚かせることはあっても
イジメに加担してきた子たちは試験なんてどうでもいい子たちで
誰が1位だろうが知ったこっちゃなかったんですよね。
それが私の誤算でした。見返すことなんでできなかったんです。

そんなイジメの温床の地元だったので高校は地元の子があまり行かないところにしました。
医師になるという夢があったので遠距離通勤になっても超進学校と呼ばれる高校に進みました。

高校生初めての勉強での挫折と祖父の死

 

高校生になればイジメっ子たちからも、イジメの記憶からも解放されると思っていました。
でも甘い考えだったとすぐに気づかされたんです。
ド田舎なので電車が一緒になるんですよ!
電車で一緒になるだけで指を差されたり、にらまれたりしていました。
でもそういう子達って一人じゃ何もしないんですよね。
集団でしかできないんだと思うと怖くなくなりました。

高校は進学校だったので入学してすぐから大学入試を意識した授業でした。
ド田舎の中学校では上位にいても、都会の進学校では全然通用しないと実感しました。
これが勉強での初めての挫折でした。
説明を聞いても、じっくり考えてもわからない!こんなことがあるなんて…
と自分が自意識過剰だったと思い知らされましたね。

さらには初めての模試で医学部を希望で書いたところ…
見事にすべてE判定だったんです。
あ、私の学力じゃ医師になれないんだ。と落ち込みました。

でもその落ち込みから勉強しても追い付かなかった3年間でした。
国境なき医師団に入るには医師だけじゃなくて看護師でもいいんだ!
そう思ったのが看護師の道に進もうと思ったきっかけです。

高校1年生のとき、家族に大きな変化がありました。
祖父の死です。
祖父はALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病にかかってしまったのです。
体調が悪いと言っていろんな病院で検査をしましたが結果は異常なし。
田舎の病院ですから専門医もなかなかいなかったのが発見が遅れた要因かもしれません。
県外の大きな病院にある神経内科を受診しすぐに病名がわかったのです。

まだ看護師の勉強をしているわけではない私には病気のことはよくわかりませんでした。
ある日祖父に「苦しいから背中をさすってほしい」と頼まれたのですが
背中をさすってすぐに祖父の異変が伝わってきました。
「怖い」それが正直な思いでした。
その思いが祖父に伝わってしまったのか「もういいよ、ありがとう」と言われ
私もその場を離れてしまいました。
あの時なんでもっと背中をさすってあげなかったんだろうという後悔は今でもあります。

病気の診断からすぐに祖父には選択が迫られていました。
人工呼吸器をつけるかどうかです。
つけるとなると、自宅療養は難しいと伝えらたそうです。
もちろんつけない場合の余命も宣告されました。
祖父の場合、珍しいパターンで病気が筋肉よりも先に呼吸器を蝕んでいたそうです。
祖父の答えは呼吸器をつけずに自宅で最期を迎えるということでした。

それから数週間後、祖父は自宅で眠るように亡くなりました
虫の知らせって本当になるんだなって思ったのですが
明け方祖母が「おじいさんがトイレに行きたいって言ってる」といい父を起こしたのです。
父はそのころ介護士の仕事をしていたので祖父の介護も父が行っていました。
祖父をトイレに連れて行ったあと、祖父のいる部屋でそのまま寝たんです。
祖父が亡くなったのはその数時間後でした。最後の時を親子で過ごしたんです。

苦しいという祖父から逃げたことや
発声がうまくできなくなり、祖父の言葉を読み取ることができなかったこと
むしろそれからも逃げたことがずっと私の後悔でした。
その後悔が今の私の看護師としての姿勢につながっているのだと思っています。

姉は高校の衛生看護科という、5年一貫校で看護師の勉強をしていました。
私が大学に進んで看護師になることを1番反対したのが姉でした。
「大卒の看護師は役に立たない」そう言われたんです。
お姉ちゃんなんてまだ看護師にもなってないのに何言ってんの!と
その時は全く相手にしなかったですけどね。

両親はありがたいことに兄弟3人とも行きたい学校に行っていいと言ってくれていて
私が大学に行くために姉が我慢したわけではありません。
ただの嫉妬です。大学受験直前はかなり邪魔されましたから。

そんな感じで大学に行って看護師になろうと思ったのですが
なんせ超進学校ですから「何が何でも国立に行け!」という先生たちの教えがあったんです
特に医療関係は国公立ならどこを出ても卒業後に同じ待遇だって言われたんですよ。
でも実際のところ、新卒では大卒か専門卒かで基本給に差があっても
転職すると全く関係ないし国公立か私立かなんて気にしてないんですよね。

そんな先生たちの教えのもと、必死に勉強して国立大学に合格しました!
親元を離れて初めての1人暮らしは不安よりも期待と開放感が大きかったんですよ。
何せ嫌な姉と離れたくて仕方なかったので。それで県外の大学に進んだようなものです。

 

大学時代看護師への道へ進む!うつとの闘い

 

国立大学なので北海道から沖縄まで、全国各地から集まっていました。
知らない人ばかりの環境でしたがすぐに友達ができました。
正直、ここには地元の人が全くいないから私のイジメの過去を知られることがない
という安心感がかなり強かったですね。
初めての1人暮らしで友達になった子も近くに住んでいたので生活は楽しかったです。

勉強はというと…
ついていけないというのではなく、興味ないかも…が
正直なところでした。もっと医療の勉強がしたい!
看護の歴史とかあんまり興味ないし!そう思ったのは私だけではありませんでしたね。

そんな感じですが別に辞めたいとかそんな風には思わず
むしろあれだけ勉強して入った大学なんだから絶対に辞められないという感じでした。
1年生の後半になると実技が始まり、いよいよ看護師の勉強だなと面白くなってきました

無事に進級が決まった1年生の終わりごろからコンビニでバイトを始めましたが
これが私の人生を左右したのかもしれません。
最初は仕事を覚えるのが早いと評価してくれていたのですが
店長が男尊女卑の考えだったので、男子が入るとそちらを優先して働かせていました
後から入った後輩に見下されることも…結構イラっとしましたね。

そんな時、バイトで事件が起きました。
レジが合っているか勤務の終わりに計算するのですが
計算が合わなかったんです。
その日、私はそのレジを数回触った程度で、ほとんど後輩の男子が担当していました。
でも店長は私を疑ったんです。はあって思ったけど
疑われると自分も不安に…
監視カメラの映像を5時間分見返したみたいで私に疑わしいことはなかったんですって
それなのに「本当に身に覚えはないの?」と聞いてきました。

それから夜眠れなくなってしまったり、家で涙が止まらなくなったりしたんですよね。
しかも中学の時のイジメのフラッシュバックまで頻繁に起るようになりました。
眠れない、過食と拒食を繰り返す、涙が止まらない
やばい!私うつじゃないそう思って病院に行きました。

抑うつ状態だと言われ精神安定剤を飲むことに。
人生終わったなと感じました。バイトも辞めてしまいました。
授業は何とか出席していたけど薬の副作用で眠くなることもありました。
バイトの店長も、イジメっ子も何食わぬ顔で生きているだろうに
何で私だけ過去を引きずってこんなにもつらい思いをしなきゃいけないの?
そんな思いでまた泣けてきました。

大学卒業まで精神科に通い続けました。
今思えば結構な医療費(涙)
調子がいい時もあったんですけど、闇の深い学生時代でもったいないことをしました。

大学4年生の夏、就職試験を受けたのは祖父の病気を見つけた病院でした。
その地域では大病院で、県外だけど実家からもそう遠くはなかったのです。
私は正直に精神科に通っていることを伝えました。
すると、配属先に提案されたのは病棟ではなく施設だったのです。
しかも正社員ではなく準正社員という立場でした。

迷いに迷ったのですが他を受けても同じ扱いかもしれないし
むしろ採用してくれないかもしれないという思いからその条件で採用してもらいました。

 

新卒で特殊領域へ!うつを克服するとき!

 

無事に国家試験に合格して働き始めたのですが
配属先は病院の中でも左遷扱いだということを後で知ったのです。
私は厄介者なの?そんな思いから仕事にも興味を持つことができませんでした。
重症心身障害児施設で、重症度の高い施設でした。
人工呼吸器をつけている子がほとんどで、全員経管栄養でした。

「新卒で働くところじゃないよ」ベテランの先輩から言われましたが
そんなこと言われても希望して配属されたわけじゃないし!
どんどん精神的に不安定になっていったんですよね…
1年目の夏、ついに仕事に行けなくなり2週間休んでしまいました。
医師からは2か月休むように言われましたが
そんなに休んだらもう職場に行けなくなりそう
そんな思いで半ば無理して復帰したんです。

先輩や同期は温かく迎えてくれて泣きそうになるほど嬉しかったです。
「おかえり」と言ってくれた先輩もいましたね。
あとから知ったのはその先輩も1年目で仕事に行けなくなり
途中でやめたんですって。理由は上司のイジメ…
そう思うとかなり恵まれた職場環境だったのです。

復帰してから私の中で何か吹っ切れた部分があったんです。
人工呼吸器や病気の勉強をし始めて、先輩にも積極的に質問するようになりました。
利用者理解とか、個別支援という意味がよくわかるようになって
仕事が楽しくなってきました
それとともに、精神科を卒業できたのです。

夜勤もできるようになり3年目にはプリセプターも任されたし
病院の教育計画通りに3年目の看護研究も無事にこなしました。
まともに働けるようになったのは周囲のサポートのおかげだったんだと思います。

感謝で一杯だったし、働き続けて恩返しをするべきだったのかもしれません。
でも、離職率がものすごく高い職場だったので
「この先輩についていきたい!もっと学びたい!!」と思える人がどんどん辞めていきました。

このまま特殊領域で働き続けてもいいのだろうか?
と悩んだとき、私の脳裏に浮かんだのは「働く人の支援」でした。
国境なき医師団はどこに行ったんだー!
って感じですけど、その頃には海外で何かすることよりも
日本で自分のように働いていてつまずいた人の支援がしたいと思うようになったんです。

実は保健師の資格も持っている私!
でも産業保健師の求人はかなり少ないし保健師経験者という条件がほとんど(泣)
それで市の採用試験を受けました。
結果は…2次の面接で不合格に。その時は落ち込みました。
でも新卒に混ざって筆記試験に合格しただけでもすごい!と自分をほめてあげましたよ。

やっぱり保健師の道をあきらめきれなかったのですが
一般病棟の経験も自分には必要だと思っていました。
転職サイトを使って紹介されたのがケアミックス病院でした。
病院が健康管理センターを持っているので
いずれ異動を願い出ればいいとアドバイスされました。

初めての一般病棟での仕事!挫折と退職

 

入職してすぐに、その思いはかなわないと知りました。
病棟勤務から健康管理センターへの異動は前例がないと…
でも転職してしまったからには病棟で頑張るしかない!と思っていたんですよ。

看護師経験は4年目になるけど一般病棟での経験がない私は
想像以上に周囲から受け入れられませんでした。
「あの子一体なんなの?経験あるんじゃないの?」
「経験者だよね?今まで何やってたの?」
そんな声が聞こえてくるのです。

同期が2人いたのですが、同期だけが理解者でした。
あるカンファレンスで議題に上がったことについて
先輩が私に話を振ったことがあったんですけど
それまでの経験で答えられる範囲で答えました。
上司が「そんなのここじゃ出来ないから」って言われたんですが
先輩は「ここで出来るかどうかじゃなくて、こういう対応方法があるってことをみんなが知ることが大事なんです」
庇ってくれました
そのあと同期からは「ちゃんとした知識も経験もあるんだから自信もって」と励まされました。
そのエピソードは転職してずっと否定され続けて自己否定の思考になっていた私にとってとてもうれしいものだったのです。

そんな嬉しいこともあったのですが、どうしても私のことを嫌いな先輩がいたんですよね。
針を持って点滴詰めているときに後ろから突き飛ばされたんですよ。
無視されたり、仕事を押し付けられたり、悪口もかなり言われました。
もう無理、辞めたい…それが正直な気持ちでしたが
転職して1年経っていなかったので、まだ頑張らなきゃと思っていました。

もともと結婚の予定があり、結婚そしてすぐに妊娠しました。
妊娠の不安や、数名の先輩からのイジメのストレスで切迫早産に。
数週間休み、そのまま退職しました。
産休・育休を経て復帰するというイメージがどうしてもできなかったのです。
私が辞めてすぐに理解者の同期も辞めていきました。
結局人間関係の悪さから離職率がかなり高い病院でした。

妊娠中に退職したので時間だけが出来てしまいました。
時間があるうちに勉強して資格を取ろうと思い
通信教育でカウンセラーの勉強を始めました。
妊娠中に試験を受けることはできなかったのですが、産後にカウンセラーの資格を取得することができました。

 

再就職!そこで感じられた自分の経験の大切さ

 

看護師として働き続けるのなら長くブランクを空けられない
子どもは可愛いけど、社会に出たいという思いがありました。
でも住んでいるのは待機児童問題が深刻な地域だったので保育園が見つかりません

そんな時に地元の会社が企業内保育園をオープンさせることを知ったのです。
その会社は市内に有料老人ホームやデイサービスを展開していました。
正直なところ有料老人ホームって興味なかったんですけど
保育園があるなら話は別!!
早速説明会に行き、とんとん拍子に面接して内定が決まりました。

老人ホームというと年配の看護師が多いと思っていましたが
20~30代の看護師もいて安心しました。
経験が浅いけど大丈夫かなと不安もありましたが、
経験年数が短くても、それまでの経験がすごく役に立ったのです。

障害児施設では経管栄養ばかりだったから、経管栄養も慣れているし
一般病棟の期間は短くても多少の経験があったので急変の対応もできたし
整形外科にいたので転倒や骨折後の対応もできました。
気管切開した利用者が入居したときも問題なく対応できました。

祖父の死で後悔した経験から、相手の思いを理解する看護師になりたいと思っていたんですけど、その思いも有料老人ホームで無駄にはなりませんでした。
不安、そばにいて話を聞いてほしいそんな高齢者によりそう姿勢を取りました。
声が出せず文字盤で話をする利用者とはどれだけ時間がかかっても
最期まで話を聞く姿勢を取りました。

その姿勢が今の私の看護師としての売りだと思っています。
ベテランの介護士さんが「望まない経験だって無駄な経験はないよ」と言ってくれましたが
本当にそうだな~と心から思います。

イジメを克服するために必死に勉強した中学時代
祖父の苦しみを受け止められなかった経験
大学に入るためにひたすら勉強した高校時代
うつになり苦しんだ大学時代
希望しない職場だったのに仕事がどんどん楽しくなった新人のころ
転職して挫折した病棟勤務

そのすべてが今の看護師としての働きに影響しています。
今の職場はパート勤務ですが残業がかなり多く幼い子供への悪影響が出てしまい
春に転職することにしましたが
今の経験も次に必ずつながると信じています。

CHECK!【実体験】転職なんて諦めかけてた私の転職ストーリー

私は本気で看護師さんに幸せになって欲しい

私は辛いままの看護師さんを救いたい!

これまで書いた記事は200記事。

これだけ情報を集めてきて思うのは
耐えてるだけでは状況は変えられないってことです。


看護師れもん

給料が低くても
体が、心がボロボロでも
耐えてるだけでは何も変わりません!


そんな中一番確実で簡単なのが転職することです。


  • 職場では怒られてばかり
  • 会話すら楽しめない
  • 勤務中に涙が止まら無い
  • 心に余裕がなくて家族にも迷惑をかける

こんな暮らしをしてきた看護師さんが、1ヶ月後には


  • 給料が上がった
  • 同僚との会話が楽しい
  • 子供と会える幸せな毎日
  • プライベートも楽しめる

って暮らしをしてたりします。

看護師れもん

行動した人の生活は
変わっていっています!


学生時代から勉強して受験に受かって
看護学校で勉強し
壮絶な看護実習を仲間と乗り越えて
晴れて看護師になって・・・我慢地獄。



こんな人生おかしい!
苦しいだけの看護師はやめましょう!


看護師って、もっと幸せに働くことができます。

4つのポイントさえ押さえれば
看護師で超幸せになることは可能なんです!


看護師として幸せになる転職術をこちらの記事で解説してます!
耐えるだけの看護師を終えたい方は読んでみて下さい。


看護師れもん

この記事があなたの人生の転機になる!

CHECK!「看護師の幸せを作る4ヶ条」これさえ知れば転職も安心!

何もしなかったら変わりませんよ!^^;


忙しいのはわかりますが、いつだって忙しいはず・・・。


今、1分読んでみるだけで
この先30年の人生が変わるかもしれないんですから
ちょっと立ち止まって読んでいって下さい♪